形見とて何か残さむ

備忘録。雪のように消えるのが夢。

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某O氏の会見について。

可哀想だなぁと感じると同時に、とても怖いとも感じた。O氏の論理は科学の世界では成り立たないものだった。今までそのことをO氏に教えてあげる人がいなかったということが恐ろしくて仕方がない。大学は科学の文法を教える教育の場だと信じていたのに、そうではなかった、少なくともそうでない場所があるらしい。

科学だって言語と一緒だと思う。誰かに教えて貰わなければ普通は話すことすらままならない。高校で学ぶ科学というのは、言うなれば科学という言葉の単語である。科学という言語で話すには、単語と文法の両方を知っていなければ話すことは出来ない。そのための文法を教えるのが大学ではないのだろうか。

英語で例えてみよう。事前知識なしで英語話者といきなり話をしたって、話せる人間はいない。そこで、英語を話せるようになるにはどうすればいいだろうか。そのまま英語話者と話し続けて、その文法を理解するのも一つの手だろう。しかし、そんなことが出来る人間はほんの一握りである。普通は英語の文法を学んでから実際に英語話者と話すのが正攻法ではなかろうか。科学だって同じである。科学という言語の文法を学んでから、実際に科学で話をしてみる。そのために文法を学ぶ場所が大学ではないのか。O氏の置かれていた環境は、つまりはひたすら科学話者と科学という言語で話す機会を与えられていただけで、その文法を教える人が誰もいなかったのではないか。

もしも大学がそのような場所になってしまっていて、科学の文法を教えなくなってしまっているなら、O氏のような人は何人もいるはずである。その人たちは不幸である。大学の理系の博士という肩書は、少なくとも科学という言語で話せる最低水準の文法は持っているという意味を持つ。そのような肩書きを与えるのに、科学という文法を教えないというのはどういうことか。博士という肩書にはそれ相応の責任がある。その責任も取れない人間、つまり科学という言葉で話せない人間に博士号を与える大学にも少々怒りを感じる。教育をしない大学などというものは、詐欺のようなものではないのか。

なんだか書いていて支離滅裂になってきたのでここら辺でやめておく。言葉遣いが過激になっている時はまともな理論で話ができていないのは今までの経験でよく身に染みているので。

後で書きなおす可能性が無きにしも非ずだけど、あんまりしないんじゃないかなという気がする。面倒だし、文章にすることでとりあえずは多少吐き出せたような気がする。まあ、校正した方が自分のためにはなるんだろうけど。そんな体力があればするくらいの気持ちで。

あと一度理系の道に進んだ後に、あれ、もしかして私は科学という言語を習得するのに向いていないんじゃないか、と気付いてしまった後に修正がきかないような気がするのもとても怖い。人生一発勝負なんてしたくないです。